2015年12月17日
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2015年12月17日
初めてシュガー・ベイブの名前を聞いたのは、当時勤務していたユイ音楽工房所属アーティストの山本コウタローさん(山本コウタローと少年探偵団)からだった。「牧村さん、ラスカルズのようなバンドがいる」と教えてくれたのだ。
1973年9月21日文京公会堂で「はっぴいえんど解散記念コンサート"CITY-Last Time Around"」が行われた。その日、大滝詠一さんはソロ・プロジェクト・コーナーを持ち、バック・バンドにごまのはえ改めココナツバンクを起用、シュガー・ベイブから山下達郎、大貫妙子、村松邦男の3人がコーラスで参加していた。
僕は「サイダー‘73」を手伝ったことがきっかけで、ユイ音楽出版(ユイ音楽工房の兄弟会社)から大森昭男さんのON・アソシエイツに移っていた。シュガー・ベイブと直接会う機会が訪れたのは、大滝さんに依頼したCMソング「三菱ラジオ・ジーガム」の時だった。
シュガー・ベイブとマネージャーの長門芳郎さんは、1973年12月17日に青山タワーホールでファースト・コンサート「Hello! We Are Sugar Babe」を開催した。村松さんによれば、コンサートのための新曲として「SHOW」と「SUGAR」の2曲が用意されたが、もうひとつくらい新曲をと思っている時に、山下さんから大滝さんの「指切り」をカヴァーしようという提案があり、それがあの跳ね上がる特徴あるサウンドの始まりになったそうだ。長門さんは「演奏が始まって、緞帳が上がって、歌い出した瞬間の胸高鳴る気分は、生まれて初めて味わうものだった」と語っている。
↑(写真:左)シュガーベイブ、デビュー時のメンバー(提供:長門芳郎氏)
↑(写真:右)シュガーベイブのファースト・コンサートのコピー・テープ。 オリジナルから後日コピーしたもの。40年近く聴いていないので、聴けるかどうかは不明。
シュガー・ベイブ(山下達郎、大貫妙子、村松邦男、鰐川巳久男、野口明彦)にとって本格的なデビューのその場に、大森さんと僕は招待されていた。客席には無論、大滝さん、伊藤銀次さんの姿もあった。カヴァー曲を除けば初めて聴く曲ばかりであったが、日本のラスカルズという評価は、なるほど的を得ていると感じた。飛び抜けたヴォーカルと、巧みなコーラスワークは会場を満足させた。1994年に行われ「TATSURO YAMASHITA Sings SUGAR BABE」のコンサート・パンフレットには、その時のことを大滝さんが書いていた。
「印象深かったのは、新人の初めてのコンサートにも拘わらず、ステージ上で『アルバムベスト&ワースト10』と称して、突然アルバムの品評を始めたことでした。」
この件については後に、レパートリーがあまりに少なかったための苦肉の策だったと聞き納得した。セットリストを見れば12曲、それもアンコール曲のうち1曲は再演奏だったが、二度目のDo You Wanna Danceは圧巻だった。
↑シュガーベイブ、ファーストコンサートのチラシ(提供:長門芳郎氏)
ゲスト、共演者は小宮やすゆうとレッドアイ・エクスプレス、山本コウタローと少年探偵団、はちみつぱい。デビュー・コンサートとしては贅沢なメンバーだった。
シュガー・ベイブ
Hello! We Are SugarBabe
1973/12/17 (月)
@青山タワーホール (東京都)
【セットリスト】
Show
それでいいさ
想い
夏の終りに
時の始まり
風が吹く日は
指切り
Sugar
港の灯り
Do You Wanna Dance
【アンコール】
Come go with me
Do You Wanna Dance
<Photo Gallery >
↑1972年の自主制作盤『ADD SOME MUSIC TO YOU DAY』の裏ジャケット。 山下達郎、鰐川巳久男、村松邦男の名前を確認できる。
↑1994年、山下達郎シングス シュガー・ベイブのパンフレット
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