2016年10月31日
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2016年10月31日
1988年10月31日、山下達郎のアルバム『僕の中の少年』がオリコン・アルバムチャートの1位を獲得。
「僕の中の少年、いいタイトルだ」と山下の師匠筋にあたる大滝詠一は、惜しげもなく讃辞した。常に山下達郎の作品は愛してやまない大滝だったろうが、この快心作に対しての愛情を隠さなかった。
山下達郎と少年、大滝詠一と青年、と対比すべき事柄だろうと思っている。はっぴいえんど、そして『イーチ・タイム』の諸作に至るまで、作詞家を問わず、大滝作品に描かれてきたのは青年像ではないだろうか? それは故郷・岩手を背に上京して始まった大滝の活動に拠する内容と思われる。少年期は岩手に置き去り、直面した「都市・東京」は、大滝にとって青年に成長して格闘した対象だったと。
しかして山下達郎のデビュー盤、シュガーベイブの裏ジャケットを見てみよう。ここには懐かしい駄菓子に書かれたような自動車が描かれている。こうしたビジュアルは、デビュー前のシュガーベイブのコンサートチケットにも生かされている。池袋の下町、共働き&カギっ子、一人っ子という生い立ち、一方でマニアックなポップス指向という組み合わせには、活気あった下町と、一方内向きに脳内ドリーミーな山下の60年代が浮かび上がる。
昭和20年代後半に生まれた若者がシュガーベイブのような音楽を始めた時に、鍵となったビジュアルが駄菓子っぽかったという事実は、味わい深い。まさに駄菓子屋の隆盛が極まった世代だからだ。山下達郎には、少年性という魅力がデビューの秘密としてあったと思うのだ。
昭和30年代前半生まれのサエキの世代になると、駄菓子屋隆盛のピークは過ぎるが、ウルトラマンなど、怪獣ブームとなり、大人になってからも「オタク」として生きる若者が登場することになる。メンコ的な感性で物事を収集する「オタク」」という小児的行動が一般化する。そんな奇妙な時代、国家の始まりとなるのだ。山下自体がオタクの元祖ともいえるが、我々昭和30年代以降の世代は、さらに幼く、どこか「子供」であり続けることが社会人の基本になってしまうのだ。
そのことに気づけば、アルバムの中に収められた「山下達郎の少年」が示唆する、その世代が「大人、青年の世代」と「子供の時代」にはさまれた実に絶妙な存在であることに気づくだろう。
一番好きな緑色の自転車、という小粋な小道具から始まる「新・東京ラプソディー」は彼の定番「夏の終わり」がテーマになるが、そこには「自分という少年」をふり返りながら自転車に乗る山下がいる。
超ヴィンテージとなったソウル・バラード「ゲット・バック・イン・ラブ」では、もう一度僕を信じて・・・、と喪失しかけた愛を呼び戻す切実な想いを語る。ここには少年はおらず、喪失と格闘する大人がいる。
海のシブキが輝くような「踊ろよ、フィッシュ」は定番の夏の恋人達の輝きだ。
そして当初、坂本龍一&矢野顕子(当時の)夫妻にオファーしたが、結果的にサザン・オールスターズの桑田佳祐・原由子夫妻を起用した「蒼氓」では、夫婦という存在を意識しながら、人生を泳ぎ渡る壮大な戦いを歌う。
ほとんどの曲は、人生を戦う青年から大人に成長した山下達郎が歌う成熟した内容になっている。
結局、ラスト曲「僕の中の少年」で、少年が登場するのだが、想い出の中に住む少年よ、さようなら、二度と振り返る事はない、とこのアルバム・タイトルが少年期への訣別を意味していたことが明かされるのだ。
1980年のニューウェイヴ期に活動を始めたサエキけんぞうは、生涯を「子供である自分」「オタク的指向」さらには「電脳空間で物理的に老いない感性」の時代と格闘することになった。
1970年初頭に活動を開始したはっぴいえんど世代は、村上龍や村上春樹とも同期といえ、永遠の青年像を獲得していったと思うが、70年代中期にデビューした山下達郎の心の中には、訣別したはずの子供心が、おそらく今も住んでいる。「アトムの子」「DONUTSONG」のような楽しい曲を時折作ってくれるからだ。山下達郎の脳には、池袋の駄菓子屋で遊んだ少年のための部屋が創られており、それは永遠に閉ざされることはない。
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