2016年06月07日
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2016年06月07日
岸部‘サリー’一徳の2歳下の実弟である岸部シロー(四郎)、今日6月7日で67歳となる。
1969年3月、オリジナルメンバーの加橋かつみ脱退に伴ってザ・タイガースに参加することになった時、岸部シローは19歳だった。ちなみに沢田研二は1歳年上。
タイガースは京都の幼なじみで遊び仲間が核であり、大阪に進出してスカウトされて東京へ出て来てからも、ずっと一緒に生活していた。そう、「家族」だったと思う。だからこそ加橋を欠くことは「一家離散」の一大危機だったはず。
所属プロダクション側は「楽器が弾けなくても男前の奴とか、逆に音楽のちゃんとできる奴とか候補を何人か選んで、最終的にメンバーを決めよう」(岸部シロー著『ザ・タイガースを呼ばれた男たち』より)と考えていたらしいが、そうした「他人」を受け入れることは、タイガース側にとっては絶対あり得ないことだったに違いない。
だが、私は「タイガース物語」は実に良く出来ている、と常に思わないではいられないように、この窮地から脱し得る唯一の解答はタイガース自身が内包していたのである。
すでにタイガースの世話係として行動を共にしており、当時は音楽評論家を目指して最先端の若者音楽が渦巻く米ロサンゼルスに8か月ほども滞在していた、岸部一徳の弟。
楽器が出来なかろうが、男前で無かろうが(失礼)、タイガースが許容出来たのは、そのシローだけだったはず。
ところが、実はシローは加橋に匹敵する高音を出せるヴォーカリストであり、また当時の欧米ロック界が先導する新たなトレンドにはシローのヴィジュアルやセンスがフィットしていて、もはやタイガースも白馬に乗った星の王子様から脱皮しなくてはならなかった時期に、計らずもイメージを一新することとなる。
さらに、シローには軽妙なトークの才能も備わっていた。
GS全盛の前年(1968年)、同じ京都出身でメンバーの大半も同年齢だったフォーク・クルセダーズが「帰って来たヨッパライ」のメガヒットで突如浮上して、普段着の関西弁で観客を笑わせたり、煽ったり、しんみりさせたりしていたように、タイガースも特にステージではシローの関西弁MCのウエイトが増して行ったようだ。
1969年にはタイガースとしてのアルバムは発表されないまま、沢田研二の初ソロ・アルバム『Julie』が世に出ることになったが、続いて70年初頭に今度は岸部兄弟がサリー&シロー名義でアルバム『トラ70619』をリリース。
沢田、瞳みのる、森本太郎のタイガース・メンバーもナレーション、作詞、作曲などで関わっており、タイガース歴代のメイン作曲家すぎやまこういちと村井邦彦もアレンジ(だけ)で参加、大半の詞はプロ作詞家の山上路夫が書いているとはいえ、かまやつひろし、クニ河内、小林勝彦、加瀬邦彦、渡辺茂樹らのGS仲間が曲作りやアレンジで(ノークレジットだが、きっと演奏でも)大きな役割を果たしているが、いわば畑違いの加藤和彦の曲も収録されているのが目を引く(近いようで遠かったタイガースとフォークル関係の、これがレコードでの唯一の接点ではないだろうか)。
冒頭の「自由の哲学」は12分にも及ぶ長さで、岸部兄弟による関西弁の応酬をメインに展開する(ある意味)プログレ+ボブ・ディラン的+平家物語+祇園囃子+お経みたいなナンバー。いきなり敷居が高いが、そこでメゲずに聴き進めば、タイガースであってタイガースでは無いという絶妙のポジションの先に見えて来る音楽的風景は当時としては見晴らしが良い。
「ロック」だ「フォーク」だというジャンルの境界線に築かれがちな壁に音楽自身がさえぎられることが無い感じで、何となく両手ぶらり戦法のような、いや、そもそも音楽に勝ち負けなんて無いやろ、ってな感触は、そこにシローが居たからこそ、と思われてならない。
また、ジャケットは蛇腹状に折り込まれた中身を拡げると180cm超のサイズに長身の2人が並んだ写真がほぼ原寸大で収まっているという、タイガースらしい手間と予算を掛けた仕様なのだが、ふと気付くと、白装束で横たわっていて花も捧げられていて、こりゃ棺桶の中やで~!
そんなブラック・ユーモアもシローの発案なのでは?
しかし、前記のプライベートな内容の「自由の哲学」の作詞は山上路夫で、本人たちに取材して書かれたにしても、2人の「昨日」と「今日」はもちろん、すでに「明日」までもが的確に描出されていたように、今では思える。
「人間気楽に生きたらいいさ」と歌うシローに、兄は「生きるってことは大変なこと」と諭す。とはいえシローは飄々と一生を過ごしそうに思われたが、それぞれ波瀾に満ちたタイガース・メンバーの中でも最も浮き沈みの激しい人生になるとは…。
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