2016年10月27日
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2016年10月27日
1975年7月、3作目のアルバム『ホット・メニュー』のレコーディングを終えたばかりのサディスティック・ミカ・バンドに、この年の初頭にプロモーションのために来日したブライアン・フェリーとマネージャーのマーク・フェヌィックから打診されていた、ロキシー・ミュージック全英ツアーのオープニング・アクトにミカ・バンドの起用が正式に決定したという朗報が飛び込んできた。
英国の人気バンドの現地公演ツアーに日本のバンドが同行するというこの前代未聞のプロジェクトは、ワーキング・ビザ取得、英国ミュージシャン・ユニオンの許諾、渡航・滞在費用の捻出など様々なハードルを越えなければならず、一時は計画そのものが頓挫しそうにもなったが、ミカ・バンドとは2年前から交友関係にあったロキシー・ミュージックの広報担当者サイモン・パックスレーや、英国でアルバム『黒船』をリリースしていたハーヴェスト・レコードのスタッフたちの尽力もあって、なんとか諸問題を解決。ようやく実現にこぎつけたのである。
1975年9月21日、東京・共立講堂での『さよならコンサート』(文字どおり、これが日本での最後のコンサートとなってしまった)を大盛況の内に終えたミカ・バンド一行は、翌22日に渡英。10月2日から約3週間に亘るロキシー・ミュージックとの公演ツアーをスタートした。日程は次のとおり。プレストン・ギルド・ホール(2日)、リヴァプール・エンパイア・ホール(3日)、リーズ大学ホール(4、5日)、ストーク・トレンタム・ガーデン(6日)、グラスゴー・アポロ・ホール(8~10日)、ニューキャッスル・シティ・ホール(12、13日)、マンチェスター・ベルビュー・ホール(14、15日)、ロンドン・ウェンブリー・エンパイアプール(17、18日)、カーディフ・キャピタル(20、21日)、バーミンガム・ビングレイ・ホール(23、24日)。公演の合間には地元のテレビやラジオにも出演した。
ミカ・バンドのライヴ・パフォーマンスは各地で大反響を巻き起こし、風変わりな東洋人たちが奏でるユニークなサウンド…特に後藤次利のチョッパー奏法を多用したベース・プレイは英国人には未知のもので、驚異の目で迎えられた。実際、リハーサル時に後藤のプレイを目の当たりにしたロキシー・ミュージックのベーシスト、ジョン・ウェットンはミカ・バンドの同行に難色を示したという。彼の直感は見事に当たって、ツアー中盤辺りからミカ・バンドへの観客の反応はヒートアップ。時には、主役のロキシー・ミュージックを“喰って”しまう勢いとなり、今回のプロジェクトの提案者でもあるマーク・フェヌィックをして、「我々の最大のミステイクは、ミカ・バンドを前座に起用したことだ」と言わしめたほどである。
音楽誌などメディアの反応も上々で、『メロディ・メイカー』『ニュー・ミュージカル・エキスプレス』『レコード・ミラー』『サウンズ』といった英国の主要音楽新聞は大々的にミカ・バンドを取り上げ、「ミカ・バンドは今必要とされているグループだ。彼らには最高のバンドとなるに必要な材料は全て揃っている』(メロディ・メイカー)、「ミカ・バンドの音楽性は想像以上に高く、とても避けがたい魅力がある』(ニュー・ミュージカル・エクスプレス)といった調子の好意的な論評が掲載されていた。
「ニュー・ミュージカル・エキスプレス」
特にツアー終了後の11月1日付『ニュー・ミュージカル・エキスプレス』には、1面トップに「1852年3月8日、米国海軍は日本に西洋文化をもたらした。それから123年後、ミカ・バンドはイギリスでツアーを行なっている」という見出しを掲げた特集記事が掲載され話題を呼んだ。「米国海軍」とはペリー提督率いる“黒船”艦隊であり、ミカ・バンドのアルバム・タイトルに引っかけていることは言うまでもない。
このようにミカ・バンドにとって大成功を収めた順風満帆のツアーだったが、バンド内では致命的な亀裂が生まれていた。加藤和彦・ミカ夫妻が修復不可能な断絶状態にあり、両者の間ではすでに離婚に向けて話し合いも何度か行なわれていたのである。原因は、『黒船』以来ミカ・バンドのレコード・プロデュースを手がけてきたクリス・トーマスとミカが74年6月頃から不倫関係にあったこと。ツアー中はそんな裏事情をおくびにも出さず平静を装っていたが、ツアー終了時には両者の我慢も限界に達したのだろう。最終的にミカはバンドと一緒の帰国を拒否し、クリスとそのまま英国に残ることに…。
こうして帰国の途に着いたミカ・バンドだが、今から41年前の今日1975年10月27日、一行の中にミカの姿は無かった。英国で先行発売されていた新作アルバム『ホット・メニュー』の日本発売を11月5日に控え、帰国凱旋コンサートをはじめ、様々なプロモーション“メニュー”を用意していた東芝EMIサイドの宣伝計画も、思いもよらぬミカ・バンドの解散によって、全ては水泡に帰してしまったわけで、担当者の落胆ぶりは想像に難くない。その後、一時帰国したミカは加藤和彦と正式離婚。5年間の結婚生活と4年に亘るミカ・バンドの活動に終止符を打ったのである。
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