2019年02月05日
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2019年02月05日
1961年に東芝レコードから「子供ぢゃないの」でレコードデビューし、弱冠14才にしてポップスクイーンの地位を確立した弘田三枝子は、“ミコちゃん”の愛称で親しまれた。「ヴァケーション 」「すてきな16歳」などカヴァー・ポップスのヒットを連ねた後、1965年には日本人歌手として初めてアメリカの「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に出場。1969年には「人形の家」で大胆なイメージチェンジを図ることに成功して、日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。1970年には、ダイエット本「ミコのカロリーBOOK」が150万部を超える大ベストセラーに。近年ではジャズやシャンソンなど、幅広いジャンルで歌い続けている。2015年にレコードデビュー55周年を控え、久々の新曲「悲しい恋をしてきたの」を発表して記念ライブを催したのは記憶に新しい。本日2月5日は歌手・弘田三枝子の誕生日。1947年生まれの彼女は72歳になる。
天才的な歌声で小学校時代から進駐軍キャンプでも歌っていたが、なぜかレコード会社のオーディションでは合格せず、そこへ白羽の矢を当てたのが、当時はまだ新興メーカーだった東芝レコードの草野浩二ディレクターであった。アレンジャーの大沢保郎氏からの紹介で彼女の歌声を聴いた氏は一発で合格と判断して、東芝と専属契約を結ぶことになる。とても14歳の子とは思えないリズム感と声の色気に驚いたという。デビュー曲となった「子供ぢゃないの」はヘレン・シャピロのカヴァーで、カップリングの「悲しき片想 い」もやはりヘレン・シャピロがオリジナル。ちなみに「子供ぢゃないの」と「じゃ」が「ぢゃ」表記になっているのは、決して草野の拘りではなく、ジャケットまわりを担当したのがたまたま年配のデザイナーだったからというエピソードがある。
1961年11月に発売された「子供ぢゃないの」がいきなりのヒットとなって以来、翌1962年には2月に「すてきな16才」、5月に「カモン・ダンス」、6月に「寝不足なの」とヒットを連発。「寝不足なの」はNHK『夢であいましょう』の<今月の唄>として作られた永六輔×中村八大コンビによるオリジナル曲で、外国曲のカヴァーが主だった弘田三枝子にとっては新趣向だった。7月「かっこいいツイスト」、10月に「ヴァケーション」、そして11月にはクリスマスの企画盤「ミコのジングル・ベル /ブルー・クリスマス」と、1年に7枚ものシングルを出したことからも人気ぶりが窺える。さらにデビュー曲「子供ぢゃないの」から僅か1か月後、1961年12月には早くも最初のアルバムも発売されていたから凄い。
テレビの音楽番組に出演しまくって人気絶頂の中、「想い出の冬休み」「渚のデイト」「悲しきハート」「私のベイビー」等1963年は6枚、翌1964年にも「ダンケシェーン」「恋と涙の17才」「ひとつぶの真珠」など5枚のシングルを出した。そして「恋のレッスン」が東芝最後のシングルとなって、64年暮れにコロムビアへ移籍する。東芝陣営としては本意ではなく、草野ディレクターが彼女の替わりにと大阪から発掘した新人が奥村チヨであったが、それはまた別の話。とにかく彼女抜きに東芝カヴァー・ポップスの成功は考えられなかったことは確かであろう。コロムビア移籍後もしばらくは「砂に消えた涙」「夢みるシャンソン人形」などのカヴァーを歌っていたが、1967年には橋本淳×筒美京平による「渚のうわさ」でオリジナル路線に変更してまずまずの成果を得る。そして1969年、ダイエットしてすっかり大人の女性に変身した彼女が久々に放った大ヒットが厭世観漂う「人形の家」だったのだ。外見の変貌ぶりも含めて、世間は奇跡のカムバックと呼んだ。
70年代も「人形の家」を手がけた川口真をはじめ、いずみたく、村井邦彦、馬飼野康二らの提供による優れた歌謡ポップスを歌い続けたが、印象深いのは1983年に” MICO”名義で出されたシングル「O-KAY」。これはサザンオールスターズのアルバム『綺麗』に収録されていた弘田三枝子へ捧げられた「MICO」へのアンサーソングで、粋なやりとりであった。桑田佳祐は「チャコの海岸物語」も飯田久彦へのオマージュだったりと、あの頃の歌謡曲へのリスペクトが限りない。いつかMICOとKAYが共演するステージを見てみたいものだ。
弘田三枝子「子供ぢゃないの」「すてきな16才」「ヴァケーション」「人形の家」「O-KAY」「悲しい恋をしてきたの」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
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