2015年07月05日
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2015年07月05日
今からちょうど42年前(1973年)の今日7月5日にリリースされた安西マリア(本名:柴崎麻利子。1953年12月16日-2014年3月15日)のデビュー曲「涙の太陽」。当時20万枚を超えるセールスを記録 (オリコン16位)し、浅田美代子、あべ静江、アグネス・チャンと共に安西マリア(奇しくも全員「あ行」!)を、この年のレコード大賞新人賞にノミネートさせたヒット曲としてお馴染みだが、もともとは1965年に他の歌手によってヒットした作品で、安西盤は8年ぶりのリバイバル・ヒットだった。
オリジナル・シンガーは、1945年7月2日英国生まれ横浜育ちのエミー・ジャクソン(本名エミー・イートン)。1964年にラジオ関東(現ラジオ日本)のDJ番組でアシスタントを務めているところを音楽評論家の湯川れい子に見い出され、1965年4月20日「涙の太陽」で歌手デビューを果たす。このエミー盤は湯川れい子自らが「Reiko Hot Rivers」のペンネーム(Hot Rivers =湯川)で書いた英語詞で歌われており、日本コロムビア洋楽部のCBSレーベルからリリース。さらには、エミー自身も英国人歌手という触れ込みで売り出されており、完全に舶来の洋楽ポップスを装っていたのである。
何故“ニセ洋楽”を装ったのか? 米大手のCBSコロムビアと提携していたもののヒット曲に恵まれなかった日本コロムビア洋楽部が起死回生の一打として企画した“和製洋楽”作品という性格上、舶来ポップスとして売り出そうとしていたのは容易に察しがつく。日本育ちで会話に何の不自由も無かったエミーが終始英語だけで応対する記者会見を開いて話題を呼んだのもそのためだろう。しかし、そんな制作コンセプト以上に“ニセ洋楽”を装わなくてはならない重要な理由があった。それは、当時のレコード業界の基本的秩序を形成していた「専属作家制度」の呪縛から逃れるためである。
専属作家制度とは、レコード会社が自社で抱える歌手のレコーディングには基本的に自社が抱える作詞家・作曲家の作品を起用するというもので、例えばコロムビア専属歌手は同社専属作家の作品しかレコーディングできず、ビクター専属の作曲家が書いたヒット曲のカヴァー盤を出すことは御法度だった。ひとつヒット曲が生まれると多くの歌手たちによるカヴァー盤が生まれ、それがまたヒットしていくという、欧米のレコード産業におけるヒット曲再生産システムが日本では確立されなかった最大の要因がこの制度にあったと言っても過言ではないだろう。
1960年代当時、戦後創立の東芝レコードやクラウンなど新しい会社は別として、明治生まれで日本最古のレコード会社であるコロムビアにおいて、専属作家制度は厳密で、同社の洋楽部とはいえオリジナル制作において自社専属作家以外(「涙の太陽」の作曲を手がけた中島安敏はフリーランス作家)の作品をレコーディングすることはタブーに等しかった。ニセ洋楽にこだわったのは、そんな社内事情を一点突破するための掟破りな対処法でもあったのである。
エミー・ジャクソン盤のひと月後の5月25日には青山ミチが歌う日本語ヴァージョン(安西マリア盤はこの歌詞に準拠してカヴァー)もリリースされ、相乗効果でオリジナル盤共々ヒットした。専属作家制度の壁をスルーできる制作方法でヒット曲を生みだすことに成功したコロムビア洋楽部のスタッフは、翌66年3月20日にブルー・コメッツの「青い瞳」をリリース。作曲をメンバーの井上忠夫(大輔)が手がけ、フリーランス作詞家の橋本淳が英語詞を書いたオリジナル曲をCBSレーベルから出すという、「涙の太陽」と同じ方法論で制作されたこの曲は、同時期に日本ビクターの洋楽レーベルからリリースされたザ・スパイダースの自作曲「ノー・ノー・ボーイ」や、この年の9月に東芝レコードの洋楽レーベル「キャピトル」からリリースされたザ・ワイルド・ワンズの自作曲「想い出の渚」などと共に、のちに「グループ・サウンズ(GS)」と呼ばれる新しい音楽スタイルの原点となったのである。
そして、一大ブームとなったGSに数多のヒット曲を提供していったすぎやまこういち、橋本淳、村井邦彦、阿久悠、筒美京平といったフリーランス作家たちの活躍によって、いつしか専属作家制度は崩壊。中世の荘園制度が崩れて次の時代が始まったように、日本の音楽シーンも新たな時代を迎えた。長年にわたりレコード業界を牛耳ってきた秩序維持装置とも言える旧態依然としたシステムを根底から覆す一大革命…その発火点となったのが「涙の太陽」だったのである。
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