2017年08月22日
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2017年08月22日
本日、8月22日は岡田有希子の誕生日。1967年生まれなので、存命であれば50歳を迎える。
今なお高い人気を誇り、多くの人々に慕われ続けているアイドル。その最期を迎えた現場や墓所の慰霊碑には今も献花が絶えない。そして何より、岡田有希子の音楽が今も聴かれ続けていることが、彼女が一級のシンガーであったことの証明だろう。彼女が残した音楽は、なぜ今も古びることなく愛され続けるのか。
岡田有希子は1983年3月30日、日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」第46回決戦大会で合格。1984年4月21日、「ファースト・デイト」で歌手デビューを果たした。
岡田有希子が所属したキャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)のプロデューサーは渡辺有三。ザ・ランチャーズのベーシストとして活躍した後、新生キャニオン・レコードの制作ディレクターに就任。山本リンダを「どうにもとまらない」で変身・再生させ、一方では高木麻早、NSP、中島みゆきらフォーク系、シンガー・ソングライターも担当。同社を代表するヒット・ディレクターであった。岡田有希子の担当時はプロデューサーとなっており、現場の担当ディレクターは国吉美織である。
渡辺有三が岡田有希子に立てたイメージ・コンセプトは「六大学野球を観に行く山の手のお嬢さん」。他のアイドルよりもしっとりとした落ち着きがあり、知的なイメージを感じ取ったゆえの狙いで、そこで作家起用に竹内まりやの名前が上がる。竹内は渡辺プロデューサーの、慶応大の後輩でもあり、82年に渡辺が担当する堀ちえみに「待ちぼうけ」を提供した縁もあった。依頼を快諾した竹内は何曲か用意し、その中から「ファースト・デイト」がデビュー曲に決定する。この時代、アイドルのデビュー曲がマイナー調というのは珍しくなっていたが、あえて彼女のしっとり落ち着いた雰囲気に合わせたのだそう。竹内はレコーディングにも立会い、コーラスでも参加している。
同年9月に発売されたファースト・アルバム『シンデレラ』の作家陣は竹内のほかEPO、山口美央子、それに白井良明と岡田徹のムーンライダーズ勢が加わり、編曲に萩田光雄、大村雅朗、清水信之が関わっているが、2作目『FAIRY』以降は松任谷正隆がトータル・アレンジで一貫した世界観を描き出している。作家陣がバラエティに富んでいるためアレンジャーで世界観の統一を図ろうと国吉ディレクターは考えたそうで、松任谷正隆の上質で品のあるアレンジは、岡田有希子の世界にフィットするものであった。
その『FAIRY』にも収録された4作目のシングル「二人だけのセレモニー」は、尾崎亜美の作曲。作詞の夏目純は、尾崎が「オールナイト・ニッポン」2部のパーソナリティを勤めていた際の常連投稿者で、彼女のセンスを気に入った尾崎が作詞をすすめ、これがデビュー作となった。
ここまで3作続けて竹内まりやが楽曲提供してきたが、竹内→尾崎という流れは、当時の女性アイドルにとって垂涎のチョイスであろう。竹内は薬師丸ひろ子「元気を出して」河合奈保子「けんかをやめて」などで女性アイドルと相性の良い作風であったが、その先達的なポジションにいたのが尾崎亜美で、南沙織の「春の予感~I’ve been mellow」を皮切りに榊原郁恵「風を見つめて」桜田淳子「LADY」松本伊代「時に愛は」などで彼女たちにグレイシーで上品な色彩を与え、女性アイドル側からの楽曲依頼が殺到していた。渡辺有三プロデューサーとは、金井夕子のデビュー曲や岩崎良美で組み、80年に尾崎がキャニオンに移籍してからは、渡辺が担当となった。そういった縁からも、岡田有希子の作品に尾崎が起用されるのは必然であっただろう。書き添えておけば、尾崎亜美のデビュー・アルバム『シェイディ』の全アレンジを担当したのは松任谷正隆その人である。
続く5作目「Summer Beach」も尾崎亜美の詞曲に松任谷正隆の編曲。尾崎の述懐によれば、岡田有希子はこの曲をいたく気に入り、レコーディングを終え次の楽曲の録音に入る前も、「Summer Beach」を歌ってから始めたという。同じプロデューサーとあって、尾崎自身のレコーディングにも岡田が遊びに行くこともあったそうで、竹内といい尾崎といい、作家とシンガーの良い関係性を物語るエピソードだ。
このように、岡田有希子のプロジェクトは、渡辺プロデューサー、国吉ディレクターを筆頭に、制作陣が練りに練ってその方向性や世界観を作り上げてきた。単にアイドル歌手が人気のシンガー・ソングライターの提供曲を集めただけではこうはいかない。だが、国吉ディレクターが後に語ったところでは、可愛いだけでアイドルになった子の場合、立派な曲が来ると歌が負けてしまうことが多いが、岡田有希子はそれに負けないオーラがあったという。中心に立つシンガーの確固たる個性と存在感を見極めた上での作家の選択、それ以上に作家を本気にさせる魅力と、作品を的確に自身に取り込めるだけの力量が岡田有希子にはあった。ヒット狙いの派手な作品ではないが、結果、時を経ても愛され続けるクオリティの高い楽曲群となったのである。
渡辺プロデューサーが育てたアイドルは、多くがそういう傾向にある。ことに岡田有希子のプロジェクトにあたっては、金井夕子の存在が念頭にあったように思う。金井は尾崎亜美作品「パステル・ラヴ」でデビューし、途中、松本隆=筒美京平コンビを挟みつつ、YMOをバックにした「チャイナ・ローズ」を発表、一線級のミュージシャンを揃えてのアルバム制作など、ハイクオリティなサウンドを施しながらも、中心にいるシンガーの個性をブレることなく最大限に活かした楽曲制作を行っていた。金井夕子でやり切れなかったものを、岡田有希子で再び作り上げ成功させた、そんな気もしている。
7作目「Love Fair」はムーンライダーズのかしぶち哲郎作詞・作曲というマニアックな人選で、3作目のアルバム『十月の人魚』では小室哲哉を作曲家として起用。小室にとっては初のメジャー歌手への楽曲提供で、岡田有希子はこれらも見事自身のものに昇華している。彼女がこの先どんなシンガーへと羽ばたいていくのか、大きな期待が寄せられていた。
そして、86年1月の「くちびるNETWORK」。作詞には岡田と同じサンミュージックの先輩で、出産休業中の松田聖子。作曲には坂本龍一という布陣で、化粧品会社の春のキャンペーン・ソングとして作られた。直前にリリースされた4作目のアルバム『ヴィーナス誕生』からディレクターが国吉から倉中保に交替している。ネーム・バリュー先行のプロジェクトはそれまでの岡田有希子の世界観とはいささか異なっていたが、狙い通りにオリコン・チャート1位を獲得。ここから新しい彼女の世界が開けていくのか、という期待と不安が入り混じった状況の中、あの4月8日を迎えるのであった。
存命であれば50歳。どんなシンガーになっていただろうか。あれから30年以上を経た今でも、彼女が遺してくれた数々の楽曲は、いささかも古びることがなく、ポップスとしての煌きと輝きを放っている。
≪著者略歴≫
馬飼野元宏(まかいの・もとひろ):音楽ライター。月刊誌「映画秘宝」編集部に所属。主な守備範囲は歌謡曲と70~80年代邦楽全般。監修書に『日本のフォーク完全読本』、『昭和歌謡ポップス・アルバム・ガイド1959-1979』ほか共著多数。
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