2018年01月03日
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2018年01月03日
「5人目のビートルズ」はいったい何人いるのだろうか。そういうふうに考えること自体がおかしいと、真面目な人には言われてしまうこともあるけれど、こういう無邪気で他愛のない妄想で遊べるのもまたビートルズの面白さだ。
まず思い浮かぶのは、マネージャーのブライアン・エプスタインと、プロデューサーのジョージ・マーティンの二人である。これに異論を挟むファンはほとんどいないと思うが、ここでは「育ての親」のジョージ・マーティンについて紹介してみる。
ジョージ・ヘンリー・マーティンは、1926年1月3日にロンドンで生まれた。6歳でピアノを始め、音楽にのめり込んでいったものの、「仕事」にする気にはならず、最初に就職したのは測量士の事務所だった。そこを2ヵ月足らずでやめたマーティンは、陸軍省に就職。最初はお茶汲みなどの雑用係だったが、その後、海軍航空隊の飛行士になった。だが、そこでもむしろ鍵盤を弾く才能が認められ、除隊後には奨学金を得ながら音楽学校に通い、プロのオーボエ奏者になった(ちなみにマーティンがオーボエを教わったのは、ポール・マッカートニーが60年代に付き合っていたジェーン・アッシャーの母親だったそうだ)。しかしすでに結婚していたマーティンは、それだけでは食えず、レコード制作アシスタント募集の告知に飛びつき、1950年にビートルズとの接点ともなるEMIへの入社を果たしたのだった。
以後、マーティンが「ビートルズの先生になるまでの道」を駆け足でたどると、50年代はいわゆる学芸ものを主とするパーロフォン・レーベルのA&R担当者となり、ジョンとポールもお気に入りだったラジオ番組『グーン・ショー』のダイジェスト・アルバムや、その番組に出ていたピーター・セラーズやスパイク・ミリガンのソロ・アルバムなどをプロデュース。60年代に入ると、セラーズとソフィア・ローレンとのデュエット曲「グッドネス・グレイシャス・ミー」が全英5位のヒット、さらに61年にはテンペランス・セヴンの「ユーアー・ドライヴィング・ミー・クレイジー」も全英1位となり、パーロフォン・レーベルのチーフ・プロデューサーとして活躍した。ちなみにテンペランス・セヴンのパーカッショニストは、 ビートルズと縁のあるボンド・ドッグ・バンドとラトルズで知られるニール・イネスの父親だったというのだから、マーティンとビートルズは「出会うべくして出会った」と言えるかもしれない。
両者の繋ぎ役となったのは、ビートルズの「生みの親」のブライアン・エプスタインだった。「デッカ・オーディション」のオープン・リールのテープをHMVレコード店でアセテート盤にして持ち歩いていたエプスタインが、HMVの階下にあるEMI系列の音楽出版社に勤めていたシド・コールマンと出会い、巡り巡ってマーティンとの縁が生まれたわけで、「もしブライアンがテープを抱えてロンドン中を歩きまわらなかったら、そしてジョージ・マーティンにめぐり会えなかったら、僕たちは成功していなかっただろう」(ジョン・レノン)という発言もむべなるかな、である。
ビートルズのレコード・デビュー後のマーティンの貢献度の多さと幅広さは、改めて言うまでもないだろう。ほんの一例ではあるけれど、たとえばアレンジに関しては、ロイ・オービソン調のスローでブルージーだった「プリーズ・プリーズ・ミー」のテンポを速めてハーモニーを加えるように提案して全英1位の大ヒットに繋げた手腕や、「イエスタデイ」の弦楽四重奏の導入もしかり、である。演奏に関しては、「ロング・トール・サリー」や「ロック・アンド・ロール・ミュージック」などで聴かれるピアノがロックンロール・サウンドの要となっているのは見逃せないし、「イン・マイ・ライフ」の間奏のバロック調の印象的なピアノ・ソロは言うに及ばず、である。サウンド作りに関しても、テンポもアレンジも異なる2曲を繋げた「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」や、「おがくずの匂いが床に充満するようなサウンドにしたい」というジョンの抽象的な要望を、テープを切り刻んで繋げ直し、さらに逆回転のサウンドで曲に放り込んで具体化した「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」をはじめ、50年代に生み出した数々の実験音楽作りの経験が最大限に発揮された。
マーティンは65年にEMIから独立し、アソシエイテッド・インディペンデント・レコーディング(AIR)を設立。ビートルズ解散後は4人のソロ作や『アンソロジー』プロジェクトのほかに、マハヴィシュヌ・オーケストラ、ジェフ・ベック、アメリカ、チープ・トリックほか数多くのプロデュースを手掛けた。97年には、ダイアナ妃を追悼したエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド97」が、マーティンにとってイギリスでの30曲目のナンバー・ワン・ヒットとなった。翌98年にはビートルズのトリビュート盤『イン・マイ・ライフ』を息子のジャイルズとともにプロデュースして自らの花道を飾り、翌99年に聴力の衰えを理由に正式に引退を表明。2001年には、50年代からのプロデュース作品を集大成した“一家に一箱”と言っていい秀逸な6枚組ボックス・セット『Produced By George Martin:50 Years In Recording』が発売された。
2016年3月8日。ジョージ・マーティンは90歳で亡くなった。同年5月11日にロンドンのセント・マーティン・イン・ザ・フィールズ教会で執り行なわれた追悼式典には、ポールやオノ・ヨーコも出席。マーティンと生前から交流が深く、式典にも参列した新田和長氏によると、ポールは、マーティンが航空隊の見張りとしてカリブ海で終戦を迎えたことに触れつつ、こんな話をしたという。
「結局、ジョージはたいしたことはしなかった、飛行機を操縦したわけでも、船を航行させたわけでもなく、爆弾を落としたわけでもない。見張りをしていただけだったんだから。これって、結局はプロデュースみたいなものだよね。曲を書くわけでもないんだし」(※)
こう言って場内を笑わせたポールは、最後にスピーチをこう締めた。
「皆さん、学生時代に一人は好きだった先生がいると思います。僕にとって、ジョージ・マーティンがまさにそういう先生のような存在でした。ジョージは彼のために仕事をしたくなる、一緒に仕事をしたくなる 、そんな存在でもあったのです。私も、私の家族も彼のことを愛しています。彼を知ることができて光栄だし、友人になることができて誇りに思います。ありがとう、ジョージ」(※)
※は『レコード・コレクターズ』2016年8月号より引用
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