2018年08月08日
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2018年08月08日
本日8月8日は、女優・前田美波里の誕生日。今日で70歳を迎えるとは信じられないくらい、ミュージカル魂に決して衰えを感じさせない現役一筋の人である。
といえども、最近街中で森星のポスターを見かける度に胸騒ぎを覚える筆者のような者にとって彼女は、資生堂のポスターが盗難続出になるほどの社会現象を巻き起こした、元祖スーパーモデルというべき存在だろう。米国人の父と日本人の母の間に生まれ、お嬢様的バックグラウンドに育まれながら、15歳で東宝入り。ミュージカル女優への道は順風満帆かと思われた。そこに舞い込んだのが、前出した資生堂の化粧品キャンペーン・ガールとしての仕事である。何しろ1966年(昭和41年)だ。日本にもファッション革命の嵐が静かに吹き荒れようとしていた、そんな時代の真っ只中である。当時の日本人女性のスタンダードからすれば、170cm近い長身はまさに驚異的プロポーション。水着写真が街中に飾られでもすれば、世の男性がキュンキュンしないわけがない。このポスター仕事により、一躍ファッションアイコンの座に躍り出ることとなる。
さて、そんなファッション革命期における世界的アイコンといえば、何と言ってもツイッギー。日本では双子デュオ、レモンレモンズがカヴァーしたことで知られる「夢みるツイッギー」他2枚のシングルを67年にリリースし、レコード活動へも進出しているが、日本のファッションアイコン代表・前田美波里がこの例に習わされるのも当然の動きであった。しかし、ミュージカル女優の素質はあるとはいえ、歌謡曲の黄金律にはまるのだろうか? そこに助け舟を出したのが、GSブームに乗って職人集団としての活躍に磨きをかけていた、井上宗孝とシャープ・ファイブだった。
67年暮れ、それまでキングに所属していたシャープ・ファイブは、フロントアクトとでも言えるシャープ・ホークスのバンドとしての独立を機にコロムビアに移籍。翌年から自ら歌う異色歌謡GS路線のシングルと、有名クラシック曲を料理した野心的アルバムの二本立で活動をより活発化させるが、移籍して初の仕事が前田美波里の初レコードのバッキングとなった。12月にリリースされたそのシングル「ふたりの浜辺」は、GS路線に乗っかることでエッジの強さを際立たせようとしたものの、美波里のボーカル力が躍動感を欠き、ボーカルのかなりの部分をシャープのメンバーの補強に頼っている。同年大ヒットした内藤洋子の「白馬のルンナ」では、意表をつく曲作りで従来の歌謡曲と別次元の乙女ワールドを開拓することに成功したコロムビアも、美波里の魅力を成功に結びつけるレコード作りには苦戦した感が伺える。ジャケットで見せる女帝ぶりも相まって、コレクションアイテムとして非常に魅力的なものに仕上がってはいるが。蛇足だがC社は2年後にも小川 "Oh! モーレツ" ローザのレコードデビューを企て、同じような罠にはまることになる。
二十歳前にして、芸能界の慌ただしさに苦悩を感じた美波里は、68年にマイク眞木と電撃結婚、翌年に米国へと逃避行する。帰国後、フィリップスから夫婦デュオとして2枚のアルバムをリリースしているが、まさに「ラブ&ピース」時代の産物色が強い、同時期のポール&リンダ・マッカートニーの作品に近いムードが醸し出されている。奇しくも同時期に井上順とエミ夫妻(当時)が、同系統のアルバムを同じフィリップスから出していたり、そんな時代であった。セカンドアルバム『エトセトラ』(72年)は良質のポップス楽曲を幾つか含み、和製ソフトロックの隠れた逸品として再評価されているが、アルバムとしては未だCD化されていない。
そんなラブライフも、息子・真木蔵人を残して76年に終焉。これを踏み台として、ミュージカル女優としての本気が遂にスタートする。独り立ちしてのファーストアルバム『BIBARI』を同じく76年にリリースしたのを皮切りに、散発的にレコード活動にも取り組んでいるが、中でも80年代初頭に今陽子、鹿島とも子と組んだユニット、ザ・レイディーズ名義でリリースした2枚のシングルが興味深い。3人とも当時30歳前後というのが信じがたい、熟成された女帝オーラに圧倒されそうだ。彼女の歌声が聴ける現時点で最も新しい作品は、昨年(2017年)リリースされた堂本光一出演の舞台『Endless SHOCK』のサントラ盤第2弾である。
前田美波里「ふたりの浜辺」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
丸芽志悟 (まるめ・しご) : 不毛な青春時代〜レコード会社勤務を経て、ネットを拠点とする「好き者」として音楽啓蒙活動を開始。『アングラ・カーニバル』『60sビート・ガールズ・コレクション』(共にテイチク)等再発CDの共同監修、ライヴ及びDJイベントの主催をFine Vacation Company名義で手がける。近年は即興演奏を軸とした自由形態バンドRacco-1000を率い活動、フルートなどを担当。 2017年5月に3タイトルが発売された初監修コンピレーションアルバム『コロムビア・ガールズ伝説』の続編として、新たに2タイトルが10月に発売された。
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