2018年08月17日
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2018年08月17日
本日8月17日は、ラスカルズの「自由への讃歌(People Got To Be Free)」がビルボードで1位を獲得した日。ラスカルズの歴代シングルのなかでも、もっとも売れたこの曲は、<世界中で明らかなことだ/どこにいる人だって自由になりたいだけなんだ>と歌われるソウルフルで力強いメッセージ・ソングで、1968年のアメリカ社会を反映した作品でもあった。
1968年、アメリカの社会情勢は混沌としていた。4月にはマーティン・ルーサー・キング牧師がメンフィスで暗殺され、6月には大統領候補だったロバート・ケネディ上院議員もロサンジェルスで暗殺されている。「自由への讃歌」は、そのロバート・ケネディが暗殺された日に書かれた曲だった。
もともとR&Bのコピー・バンドとしてスタートしたラスカルズは、リーダー格のフェリックス・キャヴァリエを中心にして、黒人音楽への限りない憧憬をサウンドや歌に込めて表現してきたバンドだったが、67~68年頃になると、その姿勢はバンドの活動スタンスにも反映されるようになり、出演者の半分が黒人でなければ、そのコンサートには出演しないと宣言。これにより、差別意識が根強かったアメリカ南部のマーケットから締め出され、彼らは商業的に徐々に下降線を辿ることになるのだが、この「自由への讃歌」は、そんなラスカルズにとって、商業面と精神面の両方が高い地点で融合し、バンドとして頂点を極めた作品といえた。
僕自身、そんなラスカルズの“本当の価値”を認識したのは二十代後半の頃だった。それまでにも、もちろんラスカルズのことは知っていたが、あくまでも「グッド・ラヴィン」や「グルーヴィン」などのシングル・ヒットを放ったグループとしてであった。
そんなあるとき、音楽専門誌でラスカルズをメインに扱ったブルー・アイド・ソウルの特集が組まれたことがあって、そこで山下達郎氏が、自分がいかにラスカルズに耽溺していたかを熱く語っていた。“操を捧げた”という、少々大袈裟ともいえる表現でラスカルズへの愛情を表明していたその文章を読んで、僕はあらためてその作品に触れたいと思い、彼らのディスコグラフィーのなかでも特に評価の高かった69年リリースの通算5作目『フリーダム・スイート(邦題:自由組曲)』を中古レコード店で購入した。
アナログLPでは2枚組の大作だったその『フリーダム・スイート』は、銀色の光沢あるジャケットが目をひくアルバムで、ひとめ見たときから名盤としての風格を感じさせた。その中身は、前述した「自由への讃歌」に加え、「レイ・オブ・ホープ」「ヘヴン」といったシングル・ヒットを含む“フリーダム・スイート”と題したヴォーカル・サイドと、“ミュージック・ミュージック”と題したインストゥルメンタル・サイドに分かれ、グループは出来うるクリエイティヴィティの限りを尽くして、アルバムのテーマである“自由”や“愛と平和”について壮大な表現を試みている。
そして、この濃密ともいえるアルバムの一連の流れのなかで聴く「自由への讃歌」は、シングルとして単体で聴くのとはまた違った、特別な響きがあるように感じた。このアルバムを購入して以来、僕は『フリーダム・スイート』のひとつのピースとして「自由への讃歌」を楽しむようになり、少しだけだが、“本当の意味でのブルー・アイド・ソウル・グループ”といわれるラスカルズの本質に触れたような気がした。
≪著者略歴≫
木村ユタカ(きむら・ゆたか):音楽ライター。レコード店のバイヤーを経てフリーに。オールディーズ・ポップスを中心に、音楽誌やCDのライナーに寄稿。著書に『ジャパニーズ・シティ・ポップ』『ナイアガラに愛をこめて』『俺たちの1000枚』など。ブログ「木村ユタカのOldies日和」もマイペース更新中。
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