2015年07月28日
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2015年07月28日
大滝詠一さんの67歳のお誕生日に、ミスター・サイダーとして登場する1973年のお話をしたいと思います。
僕が初めてCMディレクター大森昭男さんとお会いしたのは、ユイ音楽工房に参加して間もない1971年11月頃でした。上条恒彦と六文銭名義でその年のヤマハ世界歌謡祭グランプリを獲得した『出発の歌』を、グンゼのCMに使わせて欲しいとのお話しでした。大森さんはその翌年、ご自身のCM制作会社ON(ON・アソシエイツ音楽出版)を設立されます。
ユイ音楽工房は新宿2丁目にあり、その周辺にはELECレコード、御苑スタジオ、日本天然色映画などが在りました。このすべてが後に「サイダー‘73」に関わってくるのです。大滝詠一さんなら間違いなく「縁」と言うはずです。
1972年春の頃、ユイ音楽工房があった早川屋ビルの前で、「はっぴいえんど」のマネージャー石浦信三さんと遭遇しました。御苑スタジオでのリハーサル帰りということで、新宿駅までご一緒したのですが、話題は終始「よしだたくろう」が音楽を担当したフジフィルムのCMとなります。その別れ際、石浦さんの口から出たのが「はっぴいえんど」もCMをやりたい、出来たらサクラカラーをやりたいだったのです。冗談だったのかもしれませんが、僕は驚きました。フォークシンガーやロックグループがCMをやることには抵抗感があった時代でした。僕は半信半疑ながら、知り合いのCMディレクターの方に話してみますと約束しました。
1972年の秋、僕は大森さんに会いに行きます。それが『サイダー’73』に大滝詠一さんを推薦する日となりました。大森さんはその日、牧村さんがサイダーのCMを担当するとしたら、どなたとやりたいですか? と聞かれたのです。とっさに頭に浮かびあがったのは、大滝詠一さんと細野晴臣さんでした。迷ったあげく大滝さんの名前をあげました。
僕は「はっぴいえんど」の担当ディレクター三浦光紀さんから頂いた、「はっぴいえんどの大滝詠一さん」の宣伝用のテープを持っていました。4曲入りのテープの1曲目には、『表通り』(ウララカと改題される)が収録されていました。
大森さんは曲を聴くやいなや、サイダーは大滝さんでいきましょうと決めました。これがCMの数々の名作から小林旭『熱き心に』へと繋がっていく、大森大滝コンビのスタートだったのです。こうして僕はCM打ち合わせ、録音をお手伝いすることになり、CM世界に足を踏み出すことになりました。
CFの演出は日本天然色映画の結城臣雄さんが担当していました。後で知ったのですが、結城さんは資生堂のCMに「岡林信康」と「はっぴいえんど」を既に起用していたのです。
『サイダー’73』は73年2月青山にあったKRCスタジオで、原田祐臣(Ds)アラン・メリル(B)大野克夫(Pf)さんたちというメンバーで録音になりました。その年の9月21日、文京公会堂で行われた「CITY-LAST TIME AROUND」で「はっぴいえんど」は正式に解散しました。大滝さんはココナツ・バンク、シュガーベイブと共に『空飛ぶ・ウララカ・サイダー披露しました。
翌74年1月、ポリドール・スタジオで『サイダー’74』は録音されました。そこに集まったのが林立夫(Dr)細野晴臣(B)松任谷正隆(Pf)さんたち。鈴木茂さんは自身のソロ・アルバム(『BAND WAGON』 )のためにLAに行っており、替わりにココナツ・バンクの伊藤銀次(G)さんが現れました。コーラスはシンガーズ・スリーとシュガーベイブ。この録音には興奮せずにはいられませんでした。大滝さん自身もこう発言しています。「この『サイダー'74』のセッションはサウンド、コーラス共に第一級作品となり、まさにここでナイアガラ・サウンドが一気に出来上がってしまったのでした」「終わったあとに細野さんが、出来たねって言ってくれて、俺もやったなと思ったし」。
このメンバーで『サイダー’73』が再録されました。このセッションのために1年の冷却期間が必要だったのだと思います。
そして1975年、大滝さんはナイアガラ・レコードを立ち上げます。契約をしたのはELECレコードでした。その決め手になったのはCMソング集のリリースを確約したからだと言われています。
しかし4月25日リリースのシュガーベイブのアルバム、シングルと、5月25日(実際は5月30日)リリースのセカンド・アルバム後に、ELECレコードは倒産します。ナイアガラCMスペシャルVol.1は、移籍先の日本コロムビアからの、1977年3月25日リリースまで待つことになるのです。
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