2015年07月09日

細野晴臣生誕68記念~細野晴臣の仕事

執筆者:篠原章

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2015年7月9日は細野晴臣の68回目の誕生日である。


日本ロック史上に大きな足跡を刻むはっぴいえんど(1970-1973年)とYMO(1978-1983年)のリーダーとして活躍し、プロデューサー・作曲家としても、多くの才能あるアーティストや名曲を世に送りだしてきた。「巨匠」と呼ばれることも多いが、「天才」という呼称こそふさわしい希有な音楽家だ。



デビューはサイケデリックなロック・バンド、エイプリル・フールの一員としてだが(1969年)、細野がその才気を最初に発揮したのは、「日本語ロック」のパイオニアといわれるはっぴいえんど時代。ニール・ヤング、スティーヴン・スティルスが在籍したバッファロー・スプリングフィールドやローラ・ニーロなどのサウンドに刺激され、大滝詠一、松本隆、鈴木茂とともに『はっぴいえんど』(通称ゆでめん/1970年)や『風街ろまん』(1971年)といった名盤を生みだしている。他のロック系・フォーク系アーティストとも積極的に交流し、岡林信康、あがた森魚、小坂忠、久保田麻琴、西岡恭蔵、高田渡、遠藤賢司などの作品に深く関与した。
が、細野の活躍はロックの世界に留まらなかった。はっぴいえんど解散後の1973年、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆とともにキャラメル・ママという結びつきの緩やかなサウンド・プロデュース集団を結成した細野は、ポップスや歌謡曲の世界を一新するような、新しいサウンドを次々に世に問うていった(1974年後半にティン・パン・アレーと改称/活動期間は1977年まで)。




なかでも、荒井由実の『ひこうき雲』(1973年)『ミスリム』(1974年)『コバルト・アワー』(1975年)の初期3作は、ユーミンを中心に展開したニューミュージック黄金時代を方向づける斬新なサウンドで大きく注目された。
吉田美奈子『扉の冬』(1973年)では、シンガー&ソング・ライター時代の英米音楽シーンと肩を並べる質の高いサウンド・プロデュース力を示したほか、小坂忠『ほうろう』(1975年)では、日本におけるR&Bやファンクの原型といえるサウンドを創ることに成功している。雪村いづみ『スーパー・ジェネレイション』(1974年)やいしだあゆみ『アワー・コネクション』(1977年)は、ベテラン歌手を新しいサウンドで復活再生させた例として知られるが、アイドル歌謡の分野でも、アグネス・チャン「ポケットいっぱいの秘密」(1974年)、南沙織「夏の感情」(同前)といったヒット曲を手がけている。アメリカのディスコ・シーンで人気を誇っていたフィリー・ソウルの歌姫、スリー・ディグリーズが1974年に来日した際に制作された記念シングル「ミッドナイト・トレイン」(日本のみの発売)でもティン・パン・アレーがバックを務めているが、楽曲自体も松本隆=細野晴臣作品だ(編曲は矢野誠)。






ティン・パン・アレーの活動は、ロックやフォークを出発点とする他のアーティストのサポートでも驚くべき力を発揮している。とりわけナイアガラ・サウンドの出発点ともいえる大滝詠一『ナイアガラ・ムーン』(1975年)が出色で、モノクロームのロックからカラフルなポップスへと軸足を移しつつあったこの時期の大滝詠一を語るとき、細野とティン・パン・アレーの果たした役割は見逃せない。



吉田美奈子『MINAKO』(1975年)と『FLAPPER』(1976年)も細野およびティン・パン・アレー参加作として注目されるが、あがた森魚の傑作コンセプト・アルバム『日本少年』でも、細野の存在感は際立っている。細野のプロデュース作でもある本作では、細野個人の音楽的関心とあがたの才能が見事に融けあって、早くもYMOにも連なるジャパニーズ・ポップスの新しい可能性が示されている。ちなみに『日本少年』への“アンサー・アルバム”といわれる才女・矢野顕子のデビュー・アルバム『ジャパニーズ・ガール』(1976年)も細野参加作だ。細野プロデュースでは、久保田麻琴と夕焼け楽団『ハワイ・チャンプルー』で展開されたアジアン、ハワイアン&アメリカンのミクスチャーも傑作である。




なお、1975年前後のティン・パン・アレーは、ライヴ・バンドとしても活躍した。1975年には「ベイ・エリア・コンサート」と題して、小坂忠、ハックル・バック(鈴木茂のユニット)、大滝詠一、シュガー・ベイブ、吉田美奈子、バンブーとともに各地をツアーしている。翌1976年にはパラダイス・ツアーと題したツアーを組んで各地を廻った。この時は矢野顕子、佐藤博、浜口茂外也、駒沢裕城、田中章弘が同行しているほか、一部で坂本龍一も準メンバーとして参加している。


細野は、以上のようなプロデュース活動と並行して、ソロ作でも唯一無二の世界を構築しつつあった。はっぴいえんど時代の名曲「風をあつめて」の世界を昇華させた『HOSONO HOUSE』(1973年/演奏はキャラメル・ママ)から一転して、日本発ワールド・ミュージックの萌芽ともいえる『トロピカル・ダンディ』を発表したのは1975年。つづく1976年には、日本人である自らのルーツをワールド・ミュージックに直結させる試みともいえる『泰安洋行』を発表し、日本のロック/ポップス・シーンに衝撃を与えた。これらの試みは、高橋幸宏、坂本龍一との出会いを経て、YMO=イエロー・マジック・オーケストラの結成に至り、見事に開花することになる。
細野晴臣

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