2018年03月12日
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2018年03月12日
テレビをつければ替え歌バージョンのCMが流れ、近年はGENERATIONSやBOYS AND MENなど、今をときめくダンス&ボーカルグループが相次いでカバー。発売から39年を経てもなお歌い継がれている「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」は、洋楽の日本語カバーでありながら、もはや国民歌謡といっていいだろう。
その誕生は1978年、ロサンゼルスに滞在中の西城秀樹が、あるディスコチューンを気に入ったことに遡る。そう、ヴィレッジ・ピープルの「Y.M.C.A.」だ。ゲイ・マーケットを意識したコスチュームと音楽性で人気を集めていた、ニューヨーク出身の6人組が歌うその原曲は、同年9月にリリースされた3rdアルバム『Cruisin’』からのリカットシングル。翌79年に米ビルボードで2位、オリコンでも10位まで上昇する大ヒットとなるが、この時点で知っている日本人はほとんどいなかった。
1955年、広島県で生まれた西城は、父や兄の影響もあって、幼い頃より洋楽に傾倒。小学生時代からドラマーとしてバンド活動を行う、筋金入りのロック少年であった。高校時代、ジャズ喫茶で歌っているところをスカウトされ、72年3月25日に「恋する季節」でデビュー。このとき16歳の若さだった。ロックという概念がまだ定着していなかった当時、西城は「アイドル」というカテゴリーに入れられるが、長髪をふり乱す激しいアクションとハスキーな歌声はロックシンガーそのもの。180センチを超える長身とワイルドな風貌も相まって、若い女性を熱狂させ、同時期にデビューした野口五郎、郷ひろみとともに「新御三家」と称される人気者となる。しかし、彼の原点はあくまで洋楽。「ちぎれた愛」(73年9月)と「愛の十字架」(73年12月)でオリコン1位を獲得し、映画やテレビドラマでも活躍するトップアイドルになっても、海外でどういう音楽が支持されているのか、常にアンテナを張り巡らせていた。「薔薇の鎖」(74年2月)でロッド・スチュワートばりのスタンドマイク・アクションを披露したのも、大阪球場で日本人ソロアーティスト初のスタジアムコンサートを開始(74~83年)したのも、すべてヒントは海外にあり、そんな彼が洋楽をカバーするのはごく自然な流れであったといえよう。
とはいえ、コンサートではクイーンやキッス、キング・クリムゾンなどの曲を積極的にカバーしていた西城も、シングルとしてリリースするのはオリジナル曲に限られていた。それもそのはず、70年代の歌謡界には「洋楽の日本語カバーはあたらない」というジンクスがあったのだ。例外的なカバーソングとしては「ビューティフル・サンデー」(76年/田中星児)や「フィーリング」(76年/ハイ・ファイ・セット)、「Mr.サマータイム」(78年/サーカス)など、紅白歌合戦でも歌われたヒット曲が挙げられるが、これらはいずれも実績のない歌手やタイアップ付きの作品ばかり。西城のように3ヶ月に1枚のペースでシングルを発売する売れっ子たちはオリジナル曲で勝負するというのが当時の風潮であり、南沙織「カリフォルニアの青い空」(73年)や、郷ひろみ「バイ・バイ・ベイビー」(75年)など、洋楽カバー曲をリリースするときは「ローテーション外の企画もの」という扱いになることが多かった。
ロスで聴いた「Y.M.C.A」のノリのよさに惹かれた西城は帰国後、「次のステージでこの曲を歌いたい」と主張。79年の正月公演でファンと一緒に踊れる曲にするため、全身を使って「Y」「M」「C」「A」を表現する振り付けを、一の宮はじめ(振付師)と共同で考案する。当初はレコード化する予定がなかったこともあり、日本語詞はマネージャーだった天下井隆二(クレジットは“あまがいりゅうじ”。現在は芸能プロデューサー)が担当。タイトルを「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」とし、青春讃歌風に作り替えた。こうして完成した楽曲をコンサートで披露すると、ファンからは予想を上回る反響があり、ファンクラブには問い合わせが殺到。原曲がまとうゲイカルチャーのイメージに難色を示すスタッフも多かったが、急遽レコーディングが行われ、79年2月21日、28作目のシングルとして緊急発売されるに至る。
ここで当時の西城を取り巻く状況を振り返っておこう。デビュー8年目を迎えた彼はコンスタントにTOP10入りはしていたものの、オリコン1位からは5年ほど遠ざかり、レコードセールスは停滞気味。約2年ごとにメインの作家を替えて鮮度を保ってきたが、そろそろ次のステップに進まなければいけない時期に差し掛かっていた。同じ頃、ライバルの野口五郎は「送春曲」(78年12月)が6年ぶりにオリコンTOP10に入れず、郷ひろみも「ハリウッド・スキャンダル」(78年10月)がデビュー以来、初めてTOP10入りを逃すなど(企画盤は除く)、盤石と思われた新御三家の人気に陰りが見えつつあった。音楽シーンでは、ロック御三家(Char、原田真二、世良公則&ツイスト)を筆頭にニューミュージック勢が躍進。その一方で、サンタ・エスメラルダ「悲しき願い」や、ザ・ビージーズ「恋のナイト・フィーヴァー」、アラベスク「ハロー、ミスター・モンキー」が次々とTOP10入りするなど、世界的なディスコブームが日本にも押し寄せていた。
そんなさなかにリリースされた「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」はオリコン初登場3位をマーク。翌週(3月12日付け)には自身3作目の1位を獲得し、以後5週連続でトップを独走する、西城最大のヒット曲となった。40代後半以上の音楽ファンなら、TBS系『ザ・ベストテン』のランキングボードで2週にわたって満点(9999点)が表示された場面が今でも焼き付いていることだろう。当時としては異例のカバー曲でブレイクスルーを果たした西城は、『日本歌謡大賞』をはじめ、多くの音楽祭でグランプリを獲得。外国曲は対象外だった『日本レコード大賞』には届かなかったが、老若男女から愛される国民的歌手に登りつめる。一方、歌謡界には空前のカバーブームが到来し、ピンク・レディー「ピンク・タイフーン(In The Navy)」、渋谷哲平「ヤング・セーラーマン」、布施 明「恋のサバイバル」、麻生よう子「恋のサバイバル2」、川崎麻世「レッツゴーダンシング」、5カラット「ジンギスカン」など、洋楽のディスコヒットを日本語でカバーするフォロワーが続出。全身でアルファベットを表現する振り付けも、渋谷哲平「ヤング・セーラーマン」や海援隊「JODAN JODAN」などに採り入れられた。
2003年以降、2度にわたって脳梗塞に見舞われた西城だが、懸命のリハビリによって、ステージに立つまでに回復した。毎年7月には、川崎フロンターレが等々力陸上競技場で開催するホームゲームのハーフタイムショーで「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」を披露するなど、今なお日本中に元気を送り続けている。
「YOUNG MAN(Y・M・C・A)」写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト
≪著者略歴≫
濱口英樹(はまぐち・ひでき):フリーライター、プランナー、歌謡曲愛好家。現在は隔月誌『昭和40年男』(クレタ)や月刊誌『EX大衆』(双葉社)に寄稿するかたわら、FMおだわら『午前0時の歌謡祭』(第3・第4日曜24~25時)に出演中。近著は『作詞家・阿久悠の軌跡』(リットーミュージック)。
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