2016年06月06日
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2016年06月06日
現在はMXテレビ『5時に夢中!』のコメンテーター、かつては森山良子と共に男性ゲストを迎えての放談で人気を集めた『ミエと良子のおしゃべり泥棒』など、毒舌を売りにしたバラエティタレントとしても活躍を続けてきた中尾ミエだが、やはり歌い手としての実力と実績は改めて評価されて然るべき。それは彼女のステージを観ればすぐに納得させられることだろう。6月6日の誕生日で古希を迎えた彼女はバリバリの現役で歌い続けている。
芸能生活55周年を迎えた大ベテランにもかわらず、いつも元気な中尾ミエの健康の秘訣は水泳とストレッチらしい。週2~3回の水泳はもう10年以上も続けているとのこと。そのハツラツとしたイメージは昔からずっと変わっていない。福岡県小倉に生まれ育ち、13歳の時にラジオののど自慢番組でジャズを歌って合格。小学生の時に一家で上京したのは、父親が事業に失敗したためで、家計を助けるために歌っていた彼女は、61年に渡辺プロダクションと契約する。
レコードデビューは62年4月の「可愛いベイビー」(ジャケットの表記は「可愛いいベビー」だった)で、漣健児の訳詞によるカヴァー・ポップスはいきなりの大ヒットとなる。同じ月に始まったフジテレビ『森永スパーク・ショー』で、同事務所の園まり、伊東ゆかりと共に司会を務めたことから、彼女たちは“スパーク3人娘”と呼ばれて売り出されていった。ヒットが先行していた中尾ミエにとっては、なぜ3人組で括られなければならないの? と疑問を持っていたというが、長い目で見れば、3人娘での効用はかなりあった筈だ。3人揃っての活躍は65年頃まで続き、やがて歌謡曲へと転向した園まりと伊東ゆかりがそれぞれにヒットを多発していった辺りに自然解消することになったが、2004年に再結成されて以降、現在もコンサートが展開されているのは驚異的なことである。
ヒット曲は、俗に「可愛いベイビー」の一発屋などと言われ、本人もそれをギャグにする場面がよく見られるが、デビュー曲の印象があまりに強いだけで実際にはその後もスマッシュヒットを重ねており、カヴァー時代の「いちごの片想い」「涙のバースディ・パーティ」「アイドルを探せ」「夢みるシャンソン人形」といった楽曲は複数の歌手がカヴァーした中でも彼女の持ち歌である印象が強い。65年以降に顕著となるオリジナルにも見るべき作品は多く、宮川泰作曲による「おんなのこだもん」や「淋しいから」、平尾昌晃の「花のさだめ」など佳曲多数。グルーヴィーな68年のナンバー「恋のシャロック」も傑作だ。そして元々は69年に槇みちるが歌った「片想い」を2年後に歌い継ぎ、77年のリバイバルヒットをきっかけにスタンダードとして定着させたことは歌手としての大きな実績となった。
渡辺プロの他の歌手同様に宮川泰の作品も多いが、中尾ミエと最も縁が深い作曲家は、デビュー前から師事した平岡精二である。ザ・ピーナッツが宮川のレッスンを受けながら研鑽を積んだ様に、中尾は平岡のレッスンを受けてその素地を築き上げたのであった。ヴァイブラフォン奏者であった平岡は自らのバンドを率いて活躍し、歌手としての録音盤もある。ペギー葉山らによって歌われてヒットした「爪」「あいつ」「学生時代」は、氏が作詞・作曲・編曲を手がけたナンバーの中でも代表作に挙げられる楽曲群である。女優として映画出演作も多い中尾ミエの初期の主演作『夢で逢いましょ』(62年)や『ハイハイ3人娘』(63年)の音楽も平岡精二が手がけており、3人娘のテーマソングとして今もコンサートで歌われている映画主題歌「ハイハイ3人娘」ももちろん平岡の作品であることを思うと感慨深い。
何故かあまり語られる機会が少ないが、中尾は67年にブラジル・リオデジャネイロで行われた音楽祭に日本代表として参加し、見事入賞を果たしている。その時に歌われた「ただそれだけ」という曲は服部克久の作品であり、翌年、シリーズで唯一、氏が音楽を担当した『リオの若大将』に中尾がゲスト出演したのはその流れであったろう。劇中、「恋のシャロック」と「花のさだめ」を披露する場面は必見。他にも東宝の映画を中心に、クレージー・キャッツ作品のゲストなどでの歌唱シーンはどれも素晴らしく、実力派歌手の本領が発揮されている。かつての毒舌にも、今は優しさが隠し切れない愛すべきミエさん、いつまでも「可愛いBa~Ba」でいていただきたいものである。あ、ちなみにこれは実際にご本人が数年前に出された替え歌のタイトルです。
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